園長日記

2018 年 1 月 31 日 水曜日

 皆さんはご存知でしょうか?HPにおいて毎週更新されている、職員ブログ「小さなもみじの物語」のことを・・・。日々の子ども達とのエピソードをもとに、保育者の専門性を伝えるために書いています。
 ご家庭で子育てをしていると、「このような対応であっているだろうか?」と疑問に思うことは多いと思います。そのような時に大切なのは、子どもの発達についてどれだけ理解しているかです。今の時代、インターネットを開けば、必ず答えは返ってきます。しかし、同時に反対の答えも載っていて、どちらが本当の情報かを、区別するのはとても難しいです。よく「保育に答えはない」とも言われますが、それはあくまで、発達を理解した上での対応には答えがないということであって、明らかに間違った対応も多く掲載されています。
 そこで必要なのが専門性だと思います。発達に対する十分な理解があって、そこから導き出される対応は、子どもにとって幸せなことですし、そうでなければ、子どもがかわいそうです。
 是非ともこのブログを参考に、ご家庭での子どもとの関わりを考えてみてください。きっと今まで以上に子どもの笑顔を引きだすことが出来るでしょう。

(おたよりの続き)
 アタッチメントの研究で有名な遠藤利彦氏の見解の中で、私が特に興味を持つのは、保育所におけるアタッチメントです。多くの場合、母子関係のアタッチメントの研究がされてきました。そして、保育所では、特に乳児において、母親の代わりとしての役目が強調されてきました。ですから、担任を母親代わりとして考え、母子関係のアタッチメントを当てはめてきました。しかし、保育所には、多くの子どもたちがいます。そして、保育士も複数います。このような集団状況では、家庭における母親などと同じように保育者が子どもに対して関わることが、必ずしも効果的であるとは限らないということが、最近言われてきているようです。
 木月保育園では、保育を行なう時に、「保育は、家庭の代わりではなく、家庭とは違う学びの場である」と思ってやっています。よく保育は、家庭的であるべきであり、子どもたちは家に帰ってきたような雰囲気であるべきであると言われてきましたが、家庭には、こんなにも多くの子どもはいません。このような子ども集団がありません。ですから、保育園では、異年齢の子どもたちが、教科、時間割に基づかない、より自発的な活動による教育の場として位置づけるべきであると考えています。子どもが複数存在する集団状況で、保育者も複数で子どもたちのケアをする場であり、親子のように二者関係でうまく機能するわけはないと思うのです。ということで、最近、保育者のケアは、親子のケアとは異質なものである可能性が指摘されているのです。
 親子関係のような文脈で重要になるのは、子ども個人の欲求に対する反応の素早さとその的確さという意味での敏感性です。それに対して、集団状況でより重要性を増すのは、子ども一人一人というよりは、集団がうまく楽しくまとまるよう気を配り、全体の活動を構造化し、子どものちょっとしたあやまちや粗相などには子どもがあまり萎縮しないで済むよう、できる限り許容的に振る舞うといった意味での敏感性ということがわかってきていると言うのです。
 こんな研究があります。保育者が母子関係におけるような二者関係的敏感性を備えていることと、その保育者と子どものアタッチメントの安定性が高くなることとの相関は、子どもの数が少ないときはそこそこ大きいのですが、子どもの数が多くなると、徐々にその相関が小さくなることがわかったのです。それに対して、集団状況における集団的敏感性と、保育者と子どものアタッチメントの安定性との相関は、子どもの数が増えても、さして変化しないということがわかりました。こうしたことからうかがえることは、元来、複数の子どもを同時にケアせざるを得ない保育園のような集団状況では、完全に母親の代わりになることが必ずしもいいとばかりは言えないということなのです。このような研究の結果から、遠藤氏は、保育の現場には、家庭とはまた違った形での、子どもとのアタッチメントのつくり方があってしかるべきなのかもしれないと分析しています。
 ここで遠藤氏が紹介した考え方は、世界各地行なわれてきた膨大な数のアタッチメント研究によって実証的に裏打ちされたものだそうです。そして、彼はこうまとめています。「私たち大人はつい、何か特別なことをできるだけたくさんしてあげることが子どもに対する豊かな愛情のように思いがちなのかもしれません。しかし、子どもの健やかな育ちには、むしろ、日々の生活の中での、それこそ安全感の輪のような、何気ないごく自然な関わりの積み重ねこそが、より大切なのだと言うことを強調して、この章を結ぶことにしたいと思います。」
 子どもが求めてくれば丁寧に関わり、そうでない時には、子どもが自ら育とうとする力をひっそりと応援できるような、そんな自然な関わりをいつもしていきたいですね。

2018 年 1 月 13 日 土曜日

 前回、「あらかじめシナプスを多めに用意しておき、不要になった段階で適当に刈り込み、回路を円滑に運営するというシステムは、人間の脳の発達にとって好ましいことだ」と話した内容に対して、早期教育肯定派の人は、この「シナプスの数が最大になる乳幼児期に、子どもの能力を伸ばすために多くの刺激を与えることが豊かな育児環境である」と唱えるようになりました。ところが、最近になって、あまりにいろいろな刺激を与えることが疑問視されはじめてきているそうです。刺激が強すぎることによって、本来バランスよく行なわれるはずのシナプスの刈り込みに支障をきたし、子どもの脳に悪い結果をもたらすのではないかという懸念が、専門家の間で広がっているというのです。
 たとえば、注意欠陥多動性障害(ADHD)を例に考えています。ADHDは、年齢にそぐわない注意力の欠如、集中困難、多動、落ち着きのなさ、衝動性がみられる障害で、前頭葉の動きの低下が原因で起こるのではないかと考えられています。ADHDの原因の一つが、シナプスの刈り込みがうまくいかないことにあるのではないかという研究もあるそうです。 「無駄なシナプスをバランスよく削りながら成長する脳」というコンセプトは、何でもかんでも刺激すればするほど成長する、という従来の考え方に警鐘を鳴らすように思えると、小西氏は考えているようです。
 英語教育や○○式といったメソッドもとても流行っていますが、赤ちゃんにとって本当に良いこととはなんでしょうか?多くの情報から正しいものを選び出すことができるのは親だけです。もし、新しいことを始めようと思った時には、一旦立ち止まって考えてみてほしいと思います。

2018 年 1 月 1 日 月曜日

 あけましておめでとうございます。今年も、皆さんの子育てが楽しく行え、子ども達が元気に成育しますことを祈念して、このブログを書いていこうと思っています。
 近年、少子化、核家族化の弊害として出てきている問題として、「過干渉」の問題があります。これは昔から言われる「甘やかしすぎたらダメだよ」と同じ意味だと思われる人もいるかと思いますが、実はもっと深刻な問題が含まれています。それは、脳の神経細胞と深い関係があります。
 昔は脳や神経細胞は、生まれてから徐々に大きくなり、大人になるにつれて色々なものを覚えていくとされていました。しかし、最近の脳科学や神経科学の研究では、生後、数ヶ月後に神経細胞は最大になり、年を重ねていくごとに、それら多くの細胞は淘汰され、少なくなっていくと言われているのです。
 つまり、「過干渉」により、それら多くの細胞は必要ないものとみなされなくなってしまう可能性があるというのです。また、無理な関わりによっても、健全な発育にはつながらないとも言われています。赤ちゃんに対する親の希望や想いは大切ですが、赤ちゃん本人の将来のことを考えると、丁寧な関わりと同時に、赤ちゃん本人が自ら育とうとする力を信じて、その行動を暖かく見守っていくことがとても必要なようですね。 

(おたよりの続き)
 20世紀後半に発見された神経科学の二つの重要な所見があります。それは、「神経細胞の自然な細胞死」と「シナプスの過形成と刈り込み」です。その所見をもとに、ダーウィニズムは、遺伝子によって作られた粗い神経組織が、第一段階で、遺伝子によって神経細胞の細胞死は決まり、第2段階で、シナプスの刈り込みは、学習という過程によってより頻繁に使う回路は残され、そうでない回路は淘汰されるということを提唱しました。これは、使わないと回路が消失するということとは決定的に違うと小西氏は言います。常に選択という過程があり、どちらを選んで消したり、逆にさらに強化する過程が発達そのものだというのです。そのことは、あくまでも自発的な行動でなければならないということ、自分の意志によって行なわれる活動こそが学習であるということなのでしょう。
 このように、あらかじめシナプスを多めに用意しておき、不要になった段階で適当に刈り込み、回路を円滑に運営するというシステムは、人間の脳の発達にとって好ましいことだというのです。

 早期教育の落とし穴について1月15日ごろ載せます。