園長日記

2018 年 3 月 10 日 土曜日

 ミシェルは、目標を首尾良く追求するのには、自制のスキルが欠かせませんが、私たちに方向性や動機付けを与えてくれるのは、目標そのものであると言っています。目標は、人生に対する満足感の重要な決定要素で、人生の初期に選んだ目標は、私たちが達成するのちの目標と、自分の人生について覚える満足感の両方に、驚くほどの影響を与えると言います。人生の物語を推し進める目標は、どのように形作られたかには関係なく、その目標を達成しようとするときに必要とする実行機能に劣らず重要だとミシェルは主張しているのです。
 自制は、「骨の折れる制御」というレッテルを貼られたときには特に、過酷でつらい努力を要するかのように聞こえかねないとミシェルは危惧します。禁欲的で、将来のために生き、今このときの快楽を味わい損ねる働きづめの生活に、自ら飛び込むようなものというわけだと説明しています。
 彼の知人が、こんな話をしてくれたそうです。最近、マンハッタンで友人たちと夕食をとっていたときに、マシュマロ・テストが話題になったそうです。友人の一人は、グレニッチヴィレッジに住む小説家で、彼は自分の人生と、投資銀行家として成功している大金持ちの兄の人生とを比較したそうです。ピンストライプのスーツを着てエルメスのネクタイを締める生活をしている兄は、結婚して久しく、子どもたちもそろって良い暮らしをしています。弟の小説家のほうは、小説を5冊出しましたが、ほとんど話題にもならず、ろくに売れませんでした。それにもかかわらず、昼間は執筆し、夜は独身生活を楽しみ、次々と短い恋愛関係を重ねながら、自分は素晴らしい時を過ごしていると言っています。まじめで、かたぐるしい兄がマシュマロ・テストを受けたら、おそらく永遠に待ち続けるでしょうが、自分ならさっさとベルを鳴らすだろうというのが、彼の推測でした。
 実際には、この小説家はかなりの自制心がなければ本を5冊も出版できなかったでしょうし、自分を縛るような関係を誰とも結ばずに、楽しい付き合いを維持していこうとする上でも、おそらく自制は必要でしょう。それに、クリエイティブ・ライティングを重視するリベラルアーツのエリート校を卒業するというのも、自制心が相当なければできないことだとミシェルは思っています。芸術の世界で創造的な生活を送るのには、ほかのどんな分野での生活で成功を収めるのとも同じぐらい実行機能が必要とされると言います。
 しかし、目標が違うというだけのことだとミシェルは言います。実行機能がなければ、自分の目標を見つけて追い求める機会は失われます。しかし、抗い難い目標や動因がなければ、私たちは実行機能があっても力量をもてあまし、目的もなく、さまよいかねないと注意しています。
 人の人生は、それぞれ違っていますが、それはその人自身のものです。しかし、どのような人生を送ろうとも、自分ながらの人生を送るためには、実行機能が必要になります。そして、この実行機能は、遺伝子に書かれているものではなく、大人になってからも育むことが可能なのです。それには、熱烈な目標を抱くことが大切です。この目標は、私たちに方向性や動機付けを与えてくれて、目標を首尾良く追求するための自制のスキルを持たせてくれるのです。
 時にはじっと待ち、時には大胆に実行する力、どちらもバランスよく持つこと、そして、その力に気づくことが大切ですね。
 新1年生になるぞう組の子ども達が、小学校においても、上記のような行動がとれることを心より応援しています。

平成30年3月吉日


園長日記 完

2018 年 2 月 28 日 水曜日

 木月保育園の年長組であるぞう組はもうすぐ卒園式を迎えます。毎年この時期に思うことは、とてもたくましく、とても粘り強く、そして、何事にもとても興味を持って取り組むことが出来るようになったなということです。
 子ども達にとって、意欲をもって何事にも挑戦する力は、自然と身につくものではありません。この力こそ今、教育の現場で騒がれ始めた「非認知能力」という力です。非認知なので認知ではないということです。つまり、教科学習を通して知識を得ることではないということです。多くの遊びの中から人との関わりを通して、自ら生きていく力を育んでいくということです。
 小さいころから、自ら選ぶ(選択)ことをしたり、人から学び、人に教える、時には人を助けるなど、環境の中に意図的にそのような取り組みが出来る仕掛けを設けるからこそ、子ども達の力として身についていくのです。
 保育園での6年間で身につけた力は、小学校で役立てるためにつけているのではありません。将来、必ず必要となってくる力だからこそ、赤ちゃんのうちから身につける必要があるのです。
 この先5年、10年で日本の教育は大きく変わります。(期待を込めて)しかし、保育園の時に身につけたこの力は、きっと子ども達の自信として力を発揮すると思います。どんな目標を見つけ羽ばたいていくかが今から楽しみです。
追伸
 今まで、毎月掲載させていただきました、この園長日記ですが、新園開園に伴い、一旦お休みをさせていただきます。またどこかで、皆様に保育についてのお話ができる日が来るのを楽しみにしています。
 10年間ご愛読ありがとうございました。

(おたよりの続き)
 以前、このブログでも掲載したマシュマロ実験を行ったミシェルは、私たちの脳の構造は、以前に思われていたよりも順応性があり、私たちは積極的に関与し、自らの人生をどう生きるかによって自分の運命を形作られるということ、そして、成功にとってのカギは、努力を続けられるための動機付け、それは粘り強さだと言います。
 子どもたちは、永遠とも思えたに違いないほどの間、頭と想像力を使い、注意をよそに向け、ベルを鳴らさずに、大人が戻ってくるのを待ち続けたのは、マシュマロとかクッキーなど自分が選んだものが二つもらえるという熱烈な目標があったからです。その思いがとても強かったので、超人的な努力も仕甲斐のあるものとなり、継続できたのです。ミシェルは、いとしい子どもたちに願うことのリストを挙げていますが、その中には、自ら望む人生を築くように本人を動機づける、独自の熱烈な目標を発見したり、生み出したり、たまたまそれに出くわしたりしますようにという希望を必ず含めるべきであろうといっています。
 このような熱烈な目標を持つことによって、人生を粘り強く生きていく力となるのです。ミシェルは、こんな例を紹介しています。ブルース・スプリングスティーンは、新しいギターを手にした自分の姿を初めて鏡で見たときに、自分の目標を見つけたと言います。ジョージ・ラミレスは、KIPPで学んだ最初の日に、自分の目標を見つけたと言っているそうです。マーク・オーウェンは、ジュニアハイスクール時代に、SEALの隊員が書いた「緑の顔の男たち」のページをたまたま開いたときに目標を見つけ、自分も隊員になるしかないと、その瞬間に気づいたそうです。デイヴィッド・レヴィンは、教職に就いたときにようやく自分がこの世に生まれた理由を悟ったと言っているそうです。
 私たちは、みな自分の物語を持っており、時の流れとともにその物語が展開するなか、それを編集し続けることができるとミシェルは言います。過去を振り返り、たとえ、自分で気づいてさえいなかったものであっても、どんな目標を持っていたに違いないかを理解したり、先を見据えて、自分がどこへ向かっているかを解き明かしたりしながら物語を進めて行っているというのです。
 ミシェルがまだほんの子どもだった頃、いちばん好きでなかったおじが傘の製造業で成功し、いずれ手伝ってくれと熱心に誘ってきたことがあったそうです。おじは、大きくなったら何になりたい?としつこく訊いたそうです。絶対におじさんみたいになりたいという答えを期待していたのだろうとミシェルは考えましたが、彼にしてみれば、おかげで自分がこれだけはなりたくないものがわかり、それなら何になりたいのかと考え始めたと言います。
 彼には、昔からの同業者で生涯の友でもある心理学者がいるそうです。その友は、心理学者の歴史でも屈指の、成功に満ちた輝かしい経歴を持つ人で、自分が熱烈な目標を抱くようになったのは父親のおかげだと言っていました。1930年代の大恐慌のさなか、その父親は、高等教育を受けて身を立てるという念願を捨て、家族が生き延びて成功するために、身を粉にして働く道を選んだそうです。その友人は、父親に敬意を表し、彼を称えるため、彼が喜んで断念した人生を、自分が切り開いて生きるように駆り立てられたからこそ成功できたと言っているそうです。父親の分まで生きることが、彼の人生における使命になったのだと言います。
 木月保育園の子ども達が、日々の生活の中から、人には負けないぐらいの、このような熱烈な目標を持って人生を送ってもらえたら良いなと思っています。

HPに3月15日ごろ自分の目標について載せます

2018 年 2 月 10 日 土曜日

 人の発達は右肩上がりにあるのではなく、らせん状に上がっていくものであると言う人がいます。私の考える発達観は少し違うのですが、人の考え、理解は、らせん状により深く理解していくものだと思っています。それは、同じことを繰り返しながら、しかし、そこにまた新しい知見が加わり、よりその理解が深まっていくものだと思っています。ということで、子ども理解や、赤ちゃんの理解は、同じことをこのブログの中で繰り返しながら、少し違う観点、また違う研究者によっての知見を理解することで、より深まっていきます。そして、私からそれを読み進めることで、理論、考え方がどうも実際の園での子どもの姿、子どもの発達、子どもの行為と違和感を感じていたものだ、新しい知見によって、少しずつ納得のいくものに変わっていくことを実感しています。
 特に、園では、子ども集団があり、子どもたちはその集団の中の一員として存在しています。その姿は、母子における姿とは違っていることがあります。それは、発達における発現の時期は、ずいぶんと違っている気がします。それは、人はまねをすることで学習するという特性によるもので、まねる相手がいるかどうかで違ってきます。また、人は他人を意識し、負けまいとする気持ちが赤ちゃんの頃からあります。ですから、近くに他の子がいる場合と、一人で遊んでいるときとは、その行為が違うだけでなく、発達にたいしての刺激が違う気がします。
 それ以上に大きく違うのは、人との関わりにおいてです。幼児期における学びの基礎力の育成において重要であるものとして、幼児が人やものに興味をもち、かかわる中で様々なことに気付くとともに、それらを深め、広げていく過程の中で、自己発揮と自己抑制を調整する力を育むことであり、それらを通じて、個人として、また社会の構成員としての自立への基礎を養うこととあります。ということで、環境として大切なものが、興味を持ち、関わることのできるもの、人が必要なのです。その関わる人が、母親である場合と、子ども集団の中の一員として保育者と関わる場合とは違ってきます。
 それが、長い間、母子の関わりを、保育者との関わりに当てはめ、そのモデルに近づこうとしてきました。そうであれば、当然母子の関係のように、子どもと保育者との関係を1対1に近づこうとします。そして、できるだけ子どもの視界の中に他の子どもが入らないようなかかわりをしようとします。特に、子ども同士がまだ関わらないように見える乳児において、それにこだわろうとします。それにもまして、「乳児は未熟な存在である」とか「さまざまな刺激を大人から与えなければならない」ということで乳児と関わろうとしてきました。前回までのブログで紹介したように、最近の赤ちゃん観は、ずいぶんと変わってきています。それに対して、研究はずいぶんと遅れているようですが、子ども集団における発達や関わり、特に乳児、未満児における集団の中での発達や関わりには、母子には見られない特性があるような気がしています。
 そういう意味では、もう一度私たちは、子どもの社会的発達を見ていく必要がある気がしています。

2018 年 1 月 31 日 水曜日

 皆さんはご存知でしょうか?HPにおいて毎週更新されている、職員ブログ「小さなもみじの物語」のことを・・・。日々の子ども達とのエピソードをもとに、保育者の専門性を伝えるために書いています。
 ご家庭で子育てをしていると、「このような対応であっているだろうか?」と疑問に思うことは多いと思います。そのような時に大切なのは、子どもの発達についてどれだけ理解しているかです。今の時代、インターネットを開けば、必ず答えは返ってきます。しかし、同時に反対の答えも載っていて、どちらが本当の情報かを、区別するのはとても難しいです。よく「保育に答えはない」とも言われますが、それはあくまで、発達を理解した上での対応には答えがないということであって、明らかに間違った対応も多く掲載されています。
 そこで必要なのが専門性だと思います。発達に対する十分な理解があって、そこから導き出される対応は、子どもにとって幸せなことですし、そうでなければ、子どもがかわいそうです。
 是非ともこのブログを参考に、ご家庭での子どもとの関わりを考えてみてください。きっと今まで以上に子どもの笑顔を引きだすことが出来るでしょう。

(おたよりの続き)
 アタッチメントの研究で有名な遠藤利彦氏の見解の中で、私が特に興味を持つのは、保育所におけるアタッチメントです。多くの場合、母子関係のアタッチメントの研究がされてきました。そして、保育所では、特に乳児において、母親の代わりとしての役目が強調されてきました。ですから、担任を母親代わりとして考え、母子関係のアタッチメントを当てはめてきました。しかし、保育所には、多くの子どもたちがいます。そして、保育士も複数います。このような集団状況では、家庭における母親などと同じように保育者が子どもに対して関わることが、必ずしも効果的であるとは限らないということが、最近言われてきているようです。
 木月保育園では、保育を行なう時に、「保育は、家庭の代わりではなく、家庭とは違う学びの場である」と思ってやっています。よく保育は、家庭的であるべきであり、子どもたちは家に帰ってきたような雰囲気であるべきであると言われてきましたが、家庭には、こんなにも多くの子どもはいません。このような子ども集団がありません。ですから、保育園では、異年齢の子どもたちが、教科、時間割に基づかない、より自発的な活動による教育の場として位置づけるべきであると考えています。子どもが複数存在する集団状況で、保育者も複数で子どもたちのケアをする場であり、親子のように二者関係でうまく機能するわけはないと思うのです。ということで、最近、保育者のケアは、親子のケアとは異質なものである可能性が指摘されているのです。
 親子関係のような文脈で重要になるのは、子ども個人の欲求に対する反応の素早さとその的確さという意味での敏感性です。それに対して、集団状況でより重要性を増すのは、子ども一人一人というよりは、集団がうまく楽しくまとまるよう気を配り、全体の活動を構造化し、子どものちょっとしたあやまちや粗相などには子どもがあまり萎縮しないで済むよう、できる限り許容的に振る舞うといった意味での敏感性ということがわかってきていると言うのです。
 こんな研究があります。保育者が母子関係におけるような二者関係的敏感性を備えていることと、その保育者と子どものアタッチメントの安定性が高くなることとの相関は、子どもの数が少ないときはそこそこ大きいのですが、子どもの数が多くなると、徐々にその相関が小さくなることがわかったのです。それに対して、集団状況における集団的敏感性と、保育者と子どものアタッチメントの安定性との相関は、子どもの数が増えても、さして変化しないということがわかりました。こうしたことからうかがえることは、元来、複数の子どもを同時にケアせざるを得ない保育園のような集団状況では、完全に母親の代わりになることが必ずしもいいとばかりは言えないということなのです。このような研究の結果から、遠藤氏は、保育の現場には、家庭とはまた違った形での、子どもとのアタッチメントのつくり方があってしかるべきなのかもしれないと分析しています。
 ここで遠藤氏が紹介した考え方は、世界各地行なわれてきた膨大な数のアタッチメント研究によって実証的に裏打ちされたものだそうです。そして、彼はこうまとめています。「私たち大人はつい、何か特別なことをできるだけたくさんしてあげることが子どもに対する豊かな愛情のように思いがちなのかもしれません。しかし、子どもの健やかな育ちには、むしろ、日々の生活の中での、それこそ安全感の輪のような、何気ないごく自然な関わりの積み重ねこそが、より大切なのだと言うことを強調して、この章を結ぶことにしたいと思います。」
 子どもが求めてくれば丁寧に関わり、そうでない時には、子どもが自ら育とうとする力をひっそりと応援できるような、そんな自然な関わりをいつもしていきたいですね。

2018 年 1 月 13 日 土曜日

 前回、「あらかじめシナプスを多めに用意しておき、不要になった段階で適当に刈り込み、回路を円滑に運営するというシステムは、人間の脳の発達にとって好ましいことだ」と話した内容に対して、早期教育肯定派の人は、この「シナプスの数が最大になる乳幼児期に、子どもの能力を伸ばすために多くの刺激を与えることが豊かな育児環境である」と唱えるようになりました。ところが、最近になって、あまりにいろいろな刺激を与えることが疑問視されはじめてきているそうです。刺激が強すぎることによって、本来バランスよく行なわれるはずのシナプスの刈り込みに支障をきたし、子どもの脳に悪い結果をもたらすのではないかという懸念が、専門家の間で広がっているというのです。
 たとえば、注意欠陥多動性障害(ADHD)を例に考えています。ADHDは、年齢にそぐわない注意力の欠如、集中困難、多動、落ち着きのなさ、衝動性がみられる障害で、前頭葉の動きの低下が原因で起こるのではないかと考えられています。ADHDの原因の一つが、シナプスの刈り込みがうまくいかないことにあるのではないかという研究もあるそうです。 「無駄なシナプスをバランスよく削りながら成長する脳」というコンセプトは、何でもかんでも刺激すればするほど成長する、という従来の考え方に警鐘を鳴らすように思えると、小西氏は考えているようです。
 英語教育や○○式といったメソッドもとても流行っていますが、赤ちゃんにとって本当に良いこととはなんでしょうか?多くの情報から正しいものを選び出すことができるのは親だけです。もし、新しいことを始めようと思った時には、一旦立ち止まって考えてみてほしいと思います。

2018 年 1 月 1 日 月曜日

 あけましておめでとうございます。今年も、皆さんの子育てが楽しく行え、子ども達が元気に成育しますことを祈念して、このブログを書いていこうと思っています。
 近年、少子化、核家族化の弊害として出てきている問題として、「過干渉」の問題があります。これは昔から言われる「甘やかしすぎたらダメだよ」と同じ意味だと思われる人もいるかと思いますが、実はもっと深刻な問題が含まれています。それは、脳の神経細胞と深い関係があります。
 昔は脳や神経細胞は、生まれてから徐々に大きくなり、大人になるにつれて色々なものを覚えていくとされていました。しかし、最近の脳科学や神経科学の研究では、生後、数ヶ月後に神経細胞は最大になり、年を重ねていくごとに、それら多くの細胞は淘汰され、少なくなっていくと言われているのです。
 つまり、「過干渉」により、それら多くの細胞は必要ないものとみなされなくなってしまう可能性があるというのです。また、無理な関わりによっても、健全な発育にはつながらないとも言われています。赤ちゃんに対する親の希望や想いは大切ですが、赤ちゃん本人の将来のことを考えると、丁寧な関わりと同時に、赤ちゃん本人が自ら育とうとする力を信じて、その行動を暖かく見守っていくことがとても必要なようですね。 

(おたよりの続き)
 20世紀後半に発見された神経科学の二つの重要な所見があります。それは、「神経細胞の自然な細胞死」と「シナプスの過形成と刈り込み」です。その所見をもとに、ダーウィニズムは、遺伝子によって作られた粗い神経組織が、第一段階で、遺伝子によって神経細胞の細胞死は決まり、第2段階で、シナプスの刈り込みは、学習という過程によってより頻繁に使う回路は残され、そうでない回路は淘汰されるということを提唱しました。これは、使わないと回路が消失するということとは決定的に違うと小西氏は言います。常に選択という過程があり、どちらを選んで消したり、逆にさらに強化する過程が発達そのものだというのです。そのことは、あくまでも自発的な行動でなければならないということ、自分の意志によって行なわれる活動こそが学習であるということなのでしょう。
 このように、あらかじめシナプスを多めに用意しておき、不要になった段階で適当に刈り込み、回路を円滑に運営するというシステムは、人間の脳の発達にとって好ましいことだというのです。

 早期教育の落とし穴について1月15日ごろ載せます。

2017 年 12 月 15 日 金曜日

 ピアジェが、「赤ちゃんにおける原始反射を用いて、周囲とのやり取りを繰り返すことによって、次第に自分の意志で動かす運動である随意運動が発言する」と主張したことに対して、プレヒテルは、「赤ちゃんの運動は、自発的な運動が主であり、原始反射はそれに含まれているだけである」ということを主張しました。このことは、育児にも大きく関わることであると小西氏は言います。赤ちゃんは外からの刺激によって初めて動くのだということは、赤ちゃんを育てるには外からの関わりがなければならないという考え方にもつながりますが、自発運動説では、赤ちゃんは自ら動き、自ら育つのであるという考え方になり、育児観を大きく変えることになります。つまり、赤ちゃんは自ら動くことによって、他者や周囲の環境を認知するということになります。
 そのために我々保育園は、子どもの自発性を保障し、自発的に関わることのできる環境を用意しなければならないということなのです。しかし、それは、この説が打ち出されたからではなく、私たち保育の現場で、毎日子どもの行動を観察することからわかってくることなので、それをこの説が裏付けたということなのです。
 二つ目の新しい子ども観は、「バランスよく削りながら成長する」ということです。このことも何回かこのブログで紹介してきました。今まで、発達神経学では、新生児は、脊髄や延髄レベルの機能、それを原始反射と呼ぶのですが、その機能によって行動している脊椎動物であるとされてきました。そこでは、神経系の成熟と子どもの行動は1対1で対応していると考えられています。やがて大脳皮質の機能によって原始反射が抑制され、消失するようになると、中脳の成熟と関係している「立ちなおり反射」といわれる運動が出始めます。つまり、お座りや寝返りができるようになるのは、そうした脳の発達によるものであるとされてきました。さらに成熟が大脳皮質にまで及ぶと、つかまり立ちや独り歩きなどの行動ができるようになると考えられていました。
 しかし、原始歩行が消失した乳児をベルトコンベアーに乗せたり、あるいはプールの中に入れると消失した原始歩行が再び出現することが発見されました。それは、行動パターンの変化と神経系の成熟過程が1対1に対応しないことが明らかになったのです。既存の神経学では、この現象は説明することができなくなったのです。そこで、こうした既存の神経学に代わるものとして、脳、身体、環境などとの相互作用を包括的に扱う枠組みを系全体の自己組織性という観点から考えるダイナミックシステムアプローチが提唱されたのです。つまり、環境が行動を変え、それによって脳そのものも変化し、それによってまた行動が変わり、環境もまた変わるという相互的な自己組織化のシステムなのです。
 「環境」と一言で言うと簡単なようですが、ここで言う「環境」とは、将来必要となる、確実に持っていなくてはいけない能力が自発的に育つ「環境」であることから、とても重要であり、難しい内容が含まれていると言うことです。安易に「こういう子に育てたい」とは言えないほど、しっかりと精査した「環境」を用意してあげなくてはいけないのです。ちなみに、木月保育園の考える将来必要となる、確実に持っていなくてはいけない能力とは、自分で考えて行動できる能力と人と関わる能力だと思っています。

2017 年 11 月 30 日 木曜日

 先日、自分の娘に勉強を教えていた時に、気になる項目を見つけました。それは私が小学生の時に習った日本史の内容が、その当時と変わっていたことです。それはあちらこちらに見受けられ、必死に覚えた年号や名称等が変わっているのに驚かされました。
 このようなことは、保育の歴史においても同じように変わってきているようです。「日進月歩」という言葉もありますが、保育の現場においては、脳科学や発達心理学、赤ちゃん学といった色々な研究が進む中で、新たなものが研究発見され、変わってきているのです。
 おんぶ紐一つ取っても、前向きのものやうしろ向きのもの、昔ながらのおんぶタイプと色々出ていますが、今後も研究により新たなものが出てくるのでしょう。
 そのような中で、我々は何を大切にしていけば良いのでしょうか。新たに変えるということはとても勇気のいることですし、変えたことにより失敗するというリスクも伴いますので、中々変えないという保育園は多いと思います。しかし、私は「温故知新」という言葉はとても重要な意味を含んでいると思っています。つまり、古くても大切なものは決して変えず、しかし、最新の研究により、間違っていると分かったものは変えていくべきだと思っています。
 そのような意味でも、今後も学んでいく姿勢を忘れずに、子どもたちの育ちを応援していきたいと思っています。
 
(おたよりの続き)
 赤ちゃんの研究は、日々新しい知見を提供してくれます。同時に、過去からの通念を覆すような見解も発表されています。ここ何年かで、今までの赤ちゃん観がずいぶんと変わってきています。その主なものが、「赤ちゃん学を学ぶ人のために」(小西行郎、遠藤利彦編)に整理し列挙されています。
 まず、「赤ちゃんは自発的に動く」ということです。20世紀に行なわれた研究では、「赤ちゃんは、外から受けた刺激や学習によって成熟する」という考えが長らく主流でした。それは、「刺激→反応」という構図をベースに成り立っていると解釈されてきたのです。当然、赤ちゃんに刺激を与えると、赤ちゃんは反応を示し、学習します。ですから、「赤ちゃんは白紙のキャンバスだ。刺激を与えればどんどん吸収する」と誰もが考えたのだと言います。
 ちなみに、「原始歩行」ということは多くの人の知るところとなりました。その後、新生児から真似をするという「新生児模倣」。最近では、「生理的微笑」という、新生児期に赤ちゃんが自発的に笑っているということが知られてきました。それが、さらに超音波によって、胎児が笑っているような表情が見られることが明らかになっているそうです。それは、生まれてきたときに親に愛情を喚起するための方法を、準備している証拠ではないかと言われています。
 それ以外にも、新生児は甘い、苦い、酸っぱい味を区別することができ、味に合わせて大人と同じような表情をするとも言われています。こうしたさまざまな表情の多くは、胎児期にすでに準備されているということなのかもしれないと小西氏は言います。さらに、胎児の眼球や口唇の動きを観察することで、胎児の睡眠についての研究も可能となったそうです。レム睡眠とノンレム睡眠が胎児期にすでにあることも確認されているそうです。視聴覚、味覚あるいは触覚が胎児期にすでに機能していることはもはや常識となっており、胎児顔との弁別や母親の声を学習していることなどもわかりつつあるそうです。
 現在では、赤ちゃんは、「白紙状態で生まれる」わけでは無いことがわかってきたと言えるのです。
 しかし、ずいぶん前までは、生まれたての赤ちゃんは、原始歩行や新生児模倣のような「原始反射」と呼ばれるような刺激に対して反射をします。この反射とは、人間や動物が刺激に対して神経系のみを介して行なう、意志が介在しない反応のことです。すなわち、行動に「心情、意欲、態度」を根拠にしていないのです。ピアジェは、このような赤ちゃんにおける原始反射を用いて、周囲とのやり取りを繰り返すことによって、次第に自分の意志で動かす運動である随意運動が発言すると主張しました。
 その考え方に対して、原始反射そのものに対する新しい見解をプレヒテルが打ち出したのです。

プレヒテルの考えについて12月15日ごろ載せます。

2017 年 11 月 11 日 土曜日

 韓国にある、延世大学校医科大学小児精神科教授であり、新村セブランス病院小児精神科の医師でもある申宜真が、ずいぶんと昔になりますが、2004年に「かしこい親の子育て術“ゆっくり子育て”はこんなにすごい」(小学館)という本を日本で発刊しました。この本の内容は、教育熱、早期教育に走る韓国の親たちに警鐘をならしたものとして、韓国・中国で30 万部のベストセラーになりました。
 申宜真教授の著書は、小児精神科の専門医としての立場からではなく、二人の子どもを育てている親として執筆されました。そこには子どもを育てる際に、物質的な保障や子どもへの無条件の愛に固執する韓国社会にある独特の雰囲気を想定しつつ、「子どもをどれだけ愛しているかではなく、どのように愛しているか」が重要であると説いています。
 韓国人の特性の一つに「せっかち」とか「性急」があると言われていますが、この特性は、育児にも表れます。そこで、申宜真教授は「ゆっくり育てる」という提案をします。それは、子どもを放任するということではなく、過度に発達の先取りをするという雰囲気に惑わされることなく、子どもの成長段階、発達段階に会わせた育て方をしようと呼びかけたものです。そのために、子どもの発達段階に即した思考力が育っているがどうかが最重要であるとして、「one step behind」と「one step ahead」の子育て戦略を提唱しているのです。「one step behind」とは、「一呼吸おいてから対応する方法」で、「子どものなすがままを見守り、何かに好奇心を示したときに親がそっと後押しすればよい」という考えです。
 一方、「one step ahead」とは、子どもの気持ちを先回りして理解、共感することです。この「one step behind」という考え方は、昔からある日本の言葉の「見守る」に通じるものがあります。その考え方は、日本の近代以前の時期の子育ての特徴であり、柳田國男のいう「児やらい(コヤライ)」の思想と同じであると言われています。それは、「突き放すのではなく、一歩後ろから見守りながら、子どもの自然な性向に従って発達を促す、子ども主導とおとな援助の姿勢を示す教育方法である」と説明されているようです。
 どんなに時代が変わっても、変えてはいけないものがあるのですね。一歩下がり、我が子の姿をしっかりと見守っていきたいですね。

2017 年 10 月 31 日 火曜日

 近年、世界中で、教育の改革がされるようになってきて、ずっと教育を変えようとしなかった日本でも、とうとう教育改革が行われることになりました。
 最近話題になっている「アクティブラーニング」という言葉はご存知でしょうか?これは、先生からの一方的な授業を聞く事とは対照的に、生徒たちが主体となり、仲間と深く考えながら課題を解決する力を養うのが目的で、その力を養うために討議やグループワークを行う授業のことを言います。 
 2020年から大学センター試験も新しくなるというのも、ここからきています。教育の改革を速やかに進めるために、まず大学を変え、その大学へ進学するために、高校、中学、小学校、そして、幼稚園や保育園にも影響を及ぼすことになるでしょう。あと数年でこれほどの変化が起きようとしています。
 なぜ、このような改革するのでしょうか?IT技術の進化によって「知識=情報」は瞬時に得られる世界となりました。それまでは、知識をたくさん獲得していることが頭がいいとされていました。しかし、今はインターネットをはじめ、誰でも容易に知識を得られる時代です。したがって今後は、知識を取捨選択できる判断力が求められることになります。加えて、その知識を使ってどう考えるのか、どのように新しいことを生み出すのかといった思考力や創造力も求められる社会になるでしょう。先行き不透明な時代のなか、新しい価値観が生まれてくる未来において、柔軟に変化に対応していく能力を持つ人材を育てる必要があるとして、政府は教育改革を推進しているのです。
 木月保育園で行っている、これらのことを、多くの保育園や学校では、まったく行っていません。株式会社の経営する園では、早期教育をうたい文句に経営を進めています。
 一方で、お隣の韓国でも教育に対してとても力を入れています。
 子ども達にとって、何が必要で、何を選んでいくのか?今、保護者の皆様に問われている問題です。

(おたよりの続き)
 お隣の韓国では教育に対して近年とても力を入れています。教育の質を問われた時に、質の評価はなかなか難しいものがあります。例えば、「卒園児の何人が有名小学校に入学した」といった塾にあるような指標があるといいのですが、幼児教育の目的はそれではありません。では、卒園児は世の中に出てこんな活躍をしているとか、成人して有名人になったとか、何人、大学教授になったかということも判断基準にはなりません。それは、必ずしも幸せな人生を送る要素ではありませんし、そうなることが偉いわけでもないからです。
 また、早期教育を熱心にしているとか、皆、すでに小学校の教科を修得しているということも短期的には意味があるかもしれませんが、長期的に見ると、それはあまり意味がないだけではなく、かえって小学校に行ってから学業成績が下がってしまうことも分かっています。
 そのような中、韓国では、各国の保育を参考にし、それぞれのいいところを取り入れて、韓国独自のカリキュラムであるヌリ課程という、日本の幼稚園教育要領や保育所保育指針のようなものを作成し、それに沿って保育をすることで、ある質を担保していることがわかったのです。
 今日、韓国では日本の大学入試センター試験にあたる大学修学能力試験が行われる時には、警察官が遅刻しそうな受験生を会場まで送り届けたり、航空機の運航が制限されたりするなど、国を挙げた支援が展開されている姿が毎年ニュースで取り上げられています。このような国を挙げての支援は、なんだかふしぎな気がします。韓国社会は日本以上少子化が進んでいます。それは、この受験のように激しい競争の中で、「少なく生んで、上手に育てる」という考えが広がっているからです。しかし、その「上手に」が問題です。多くは、「自分の子どもを誰よりも賢く育てたい」という親たちの熱望であり、そのために、英語学習、中国語学習や過度の商業主義による様々な早期教育が行なわれています。幼児施設において、質が高いと言われている園では、このようなことには振り回されず、国が決めた標準教育課程とヌリ課程に沿って保育をしていますが、多くの園では詰め込みが激しいようです。
 そんな中で、2004年に「かしこい親の子育て術“ゆっくり子育て”はこんなにすごい」(小学館)という本を日本で発刊した、申宜真教授の著書は、小児精神科の専門医としての立場からではなく、二人の子どもを育てている親として執筆されました。実際、この本に書かれているのはいったいどのような内容なのでしょうか?

 

11月15日ごろ韓国の最新の子育てについて載せます