園長日記

2016 年 5 月 31 日 火曜日

 私は、よく各お部屋を回って、子ども達の生活の様子を観察しに行きます。すると、まだ慣れない、ひよこ組やあひる組の子どもは色々なコニュニケーションをとってきます。笑顔で手を振ってくれる子、泣きながら私から離れていこうとする子等です。
 その中で、時たま、指差しをして、私に何かを伝えようとする子がいます。以前のブログでも書きましたが、赤ちゃんは言葉が上手にしゃべれない分、目から多くの情報を吸収し、成長していきます。誰が教えたわけでもないのに突然できるようになっているということは珍しくありません。なので、単純に「これ取って?」とか「こっちを向いて」ではなく、もっと複雑な「あなたの探しているペンはこっちだよ!」とか、「こっちからあなたを探している人が来るよ」と言うようなもっと成長しないと分からないような事を伝えてくれているかもしれません。
 今はまだ、「泣くのが仕事」と言われることもありますが、いっぱい見て、学んで、マネをしていく姿を見守っていきたいと思います。

(おたよりの続き)
 私は、赤ちゃんが他の大人、他の子どもとどのようなコミュニケーションをとっているかということに興味を持っていたところ、この課題にアメリカのマックス・ブランク進化人類学研究所共同所長であるマイケル・トマセロとい人が実際に研究として取組でいました。言語は、人が人とコミュニケーションするときに必要です。なぜ、コミュニケーションが必要かというと、それは、人は社会を構成して生きてきたからです。なぜ社会を形成する必要があったかというと、協力することが必要だったからです。ということで、特定の慣習的言語の進化は、人間が生物学的に進化発達させた一般的な協力に基づくコミュニケーションの能力の上にしてきたのです。
 ヒト特有のコミュニケーションを考える上で、トマセロはこう言います。「動物園でどの動物でもいいから近づいて、何か簡単なことを伝えてみよう」たとえば、ぐるっと回ってみようと誘おうとしても、それを身振りとか、手振りとかでいくら示しても決してやってくれません。また、それをもしやってくれたらおいしい食べ物をあげるからと、食べ物が隠された場所を指差してみても、動物たちは決して理解しないと言います。また、その動物に、恐ろしい肉食動物が茂みの裏で待ち伏せていることを、その場所を指差して、その肉食動物の行為を物まねすることで伝えてみても、動物たちは理解しないだろうと言います。それは、動物は動物なりに興味がなかったり、動機付けがなかったり、知能が高くないからというようなことではないと言います。ただ単に、たとえ言葉を使わない方法でも動物たちには何を言うこともできないし、理解することを期待することさえできないと言うのです。
 それでは人間は一体どうなのでしょう?

6月15日頃、人の指差しとものまねについてHPに載せます。

2016 年 5 月 14 日 土曜日

  藤井さんは、人が顔を認知するときには、「目」と「顔」の二つからしていると考えています。それは、それぞれが破壊されてしまった患者が存在するそうです。しかし、これまでの視覚の研究では、物の形を認識する機能について行われてきたために、顔の認識の機能も、顔という物に対する視覚の機能として取り扱われてきました。それに対して、顔の認知は、物の認知と全く違う機能であるという考えがあります。この問題については、現在も続いているようです。
 藤井さんは、顔を認識する経路は、完全に独立したものとは考えていないようです。顔を認識する機能は、やはり進化的には物を認知する一部として始まっている可能性が高いからです。脳の基本的な戦略は、重要な物に必要に応じて余分なリソースを割くことで、その場合は、まったくあたらしい処理経路を作るのではなく、既存のシステムを使ってある要素に特化させる方法が効率的だからです。どちらにしても、他者の顔という視覚要素に対して特別な働きを見せる脳領野が存在していて、その部位が壊れるとその機能が選択的に失われるということは確かなようです。
 では、その機能が失われてしまうと、どうなってしまうのでしょうか?いろいろな物が見えても、顔だけが認識できなくなるとどうなるかです。このようなケースは、高次認知機能の障害ですが、その感覚機能そのものが脳の中から存在しなくなることが多く、本人にはその機能が欠損したことがわからないというケースも多いそうです。いわゆる、高次機能がやられてしまうと、客観性を保つことが難しくなるそうです。
 では、もう一つの認識機能の「目」についてはどうでしょうか?まず、目の動きにはどのくらい情報があるかという点です。誰かと話すとき、相手の目を適度に見て話を進めることが重要であるとよく言いますが、それにはどのような意味があるのでしょうか?藤井さんは、それをこう考えています。一つには、相手の目を見て話さないことは失礼であるという社会的な意味があります。これは、きわめて人為的な要求で文化的違いもありますが、上下関係が明らかな場合に、上位の人から要求されることが多いようです。先生から、子どもにむかって「目を見て話しなさい!」と言う場合が多いということです。
 藤井さんは、こう考えています。「目を合わせるという行為は、一種の競合であり、通常回の人が先に視線を外すことで両者の上下関係が確定するからです。つまり、不安定な上下関係をとりあえずの確定状態に置くという意味で、その場の不安定な社会関係を一時固定して、話を先に進めるという役割がある。」と考えています。
 もし目を合わせようとしない相手との打ち合わせは落ち着かないと言います。これは、お互いの間に社会的上下構造の設定ができず、その場にいる人々は常に不安な状態にさらされるからだと考えています。ということから、適度に目を見て話すということは、「場の社会的構造を安定させる一つの社会的な知恵」ということになります。
 もう一つの意味は、相手の目の動きから情報を読み解くという役割です。目の使い方によって様々な駆け引きが可能になります。それは、非言語的な行為ですが、現代社会で生きていく上で必須条件です。それは、目に対して特別に敏感に反応する場所が脳の中にあるからのようです。この機能に関しては、特に言葉を発する事の出来ない赤ちゃんから感じることが出来ます。1番信頼している両親と先生とのやり取りの時に、きっと2人の目をよく見ているのだと思います。
 その様な意味でも、家庭と園との連携やコミュニケーションはとても重要ですね。毎朝の忙しい貴重な時間ですが、ほんの一言会話をするだけで、赤ちゃんも安心するということです。是非ともご協力をお願いしますね。