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同年齢と異年齢

2014.05.30

 今年度に入りはや2か月が経ち、どのクラスもだいぶ落ち着いてきました。特に1歳児は12名もの新入園児が入ったにも関わらず、だいぶ前から落ち着いたように感じます。実はそれには一つ理由があります。それは幼児組の子ども達が新年度の初めからお手伝いに来てくれたからです。言わば「子ども先生」として新しい子ども達と遊びに来てくれたのです。4月ですから当然ビックリするほど泣いているにもかかわらず、どんどん子どものところに行って遊び始めました。すると一人また一人と、さっきまで泣いていた子ども達が順々に泣き止んでいったのです。その姿にベテランの職員もビックリするほどでした。その後、様々な遊びが広がっていき、今の落ち着きにつながっています。子ども達が落ち着いた理由は、必ずしもこれだけではないと思いますが、「子ども先生」の活躍は目を見張るものがありました。
 異年齢の関わりは一見すると、下の子にとってだけ良いように映りますが、実は小さい子の世話をする大きい子の方が、あれやこれやと頭を使いながら世話をすることで、相手の気持ちを理解することが出来るようになると言われています。相手の顔色を見ながら対応する事は大人でも難しい力です。共に育つ力ってすごいですね。子ども同士の関わりの中で、これからも多くの学びにつなげたいと思っています。
 同年齢と異年齢についてHPに載せます。見て下さいね!
(おたよりの続き)
 日本では、民俗学者である柳田国男の「こども風土記」の中では、子どもたちが、地域のなかで、小学校などの年齢別制度と比べて、異年齢で遊ぶ子どもたちの姿が生き生きとえがかれています。同様に、民俗学者である宮本常一による「子どもの世界」の中でも、子どもの異年齢児集団における遊び、生活が描かれています。家庭のなかでの兄弟、地域のなかでの子ども集団は常に異年齢でした。また、江戸時代までの学校である寺子屋や藩校でも、おおむねの入学年齢はあったものの、基本的には異年齢で学んでいました。江戸時代までは、学ぶときも、遊ぶときも、生活する時でも、どこででも異年齢集団でした。
 過疎地では複式学級のように異年齢で学習しますが、世界の中でも小規模社会では、人口が少ないために、人口学的要因が異なる方向に働きます。ジャレド氏は、小規模狩猟採集社会を対象に学術調査を行い、観察した結果から次のように指摘しています。「小規模社会では、子どもの学習形態や遊戯形態が、教室ひとつで事足りる規模の学校のそれに似ているのである。たとえば、典型的な狩猟採集民の小規模血縁集団の平均的人口構成は、30人前後の全人口のうち10数人程度が思春期前の男女の子どもである。この程度の人数では、大規模社会にみられるような同年齢の遊戯集団の構成は物理的に不可能なので、小規模血縁集団では異年齢の遊戯集団が構成され、男子も女子も、子どもはその集団の中で遊ぶのである。」このような集団では、どのような営みが行われているのでしょうか?「大きな子どもも小さな子どもも同じ集団内で一緒に遊ぶ、異年齢による遊戯形態は、年長の子どもと年少の子どもの双方にメリットをもたらす。年少の子どもは、大人との接触で社会性を養うほかに、年長の子どもとの接触を通じて社会性を学ぶことができる。年長の子どもは、年少の子どもとの接触を通じて、子どもの世話の実体験ができる。この時の経験がものをいって、狩猟採集社会では、10代で親になり、自信を持って子育てに励めるのだろう。10代で親になる人は西洋社会にも多い。しかも、未婚の10代が多い。しかし、そういった人々は、育児の経験に乏しく、大人にもなりきれていないため、育児に的確な親とはいいがたい。それとは逆に、小規模社会では、10代で親になる子どもは、幼児を世話する経験を何年も重ねたのちに、親になっているのである。」
 このような体験は、少子化社会でも重要です。前回書いた、赤ちゃんの泣き声による騒音問題でも、赤ちゃんの泣き声を聞く体験が少ないということもあるでしょう。異年齢でのかかわりは、遊ぶときだけでなく、大人になるときの準備に必要なことなのです。教育基本法の目的である平和で民主的な社会の形成者としての資質を備えることであるならば、社会という異年齢集団でのかかわりのために、子どもの頃から異年齢で過ごす体験が重要になるということは当然でしょう。
 

今の日本の状況と異年齢保育について6月15日ごろ載せます。

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