伝統行事

世界の人形

2014.03.14

 子どもが遊ぶ人形と言えば、世界では、「ヴァルドルフ人形」が有名です。この人形には、目鼻がありません。他人の表情は、目鼻、特に目やまゆ毛、口などで表します。しかし、この人形は基本的に目鼻をつけないのは、表情をつけないためです。目鼻をつけるときは、色鉛筆でうすーく小さく描くだけで、やはり表情はあまりつけないようにします。なぜ表情をつけないかというと、その人形で遊ぶときの子どものその時の気持ちを受け止められるようにということからです。これは、シュタイナーの教育理論に基づいて作られているのです。

 

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 かつて、子どもたちは、自然物を使って遊んでいた時の人形にも目鼻がついていません。葉を使ったり、麦わらを使ったり、どんぐり、松ぼっくりなどを使って人形遊びをするときにも表情を表わすような目鼻はついていません。人形に目鼻をつけること、表情をつけることはどう考えればいいのでしょうか?
 たとえば、子どもが人形を使って遊んでいる場面を考えてみます。人形を赤ん坊に見立てて、お母さんのやるようなことをするとします。お腹がすくとミルクを与えます。おむつが汚れていると替えてあげます。一緒に散歩に行き、一緒に遊びます。その時の赤ちゃんは、場面によって様々な表情をするでしょうし、母親はその表情から赤ちゃんの要求を判断し、対応します。したがって、その時に遊ぶ人形には、いつも笑っている表情だけでは不自然になります。どのような表情にも見える程度の表情の方がいいかもしれません。しかし、だからと言って、目鼻がないといいのかというと、それは少し違うような気がします。
 例えば、能面は基本的には目鼻がついていますが、その表情は、怒っているとき、泣いているとき、落胆しているとき、悦んでいるとき、それぞれの表情を表わします。その状況によって、見る人の受け取り方を変えることができるのです。その時には、目鼻の有無というよりも、「能面」と言われるような、気持ちをはっきり表わさないような表情を見せています。
もし、目鼻をつけないことで、それを見る子どもの創造力をつけるという役割があるとします。本の読み聞かせをするときに、子どもたちは挿絵を見たがりますし、紙芝居のような話に沿った絵を見たがります。それは、かつてラジオを聴きながらその世界を創造してワクワクしていた時代から、テレビによってその姿が映され、そのものが限定されてしまっています。ですから、子どもたちは、話だけ、言葉、文字からだけでは不安になるようです。そのため、今の子どもたちに目鼻がない人形を見せると、「変なの!」と言って、創造するよりも不自然さを指摘するのです。それは、自然物を見立てて遊ぶよりも、より本物に近いミニチュアで遊ぶことが多くなった弊害の気はします。もっと、子どもたちの想像力を広げるようなおもちゃが多くなってほしい気がします。
 次に、人形によって自分の気持ちを移入する場合です。「ヴァルドルフ人形」の役割はそれを意識しています。子どもの自分の気持ちを人形が受け止めてくれるのです。しかし、その時にも私は考え方が二通りある気がします。例えば、悲しい気持ちの時に、その気持ちに共感してもらうことで癒されるか、悲しい気持ちの時に逆に楽しい気持ちになるようにはげまされることによって癒されるかです。私は、人形に共感を求めるよりも、励まされる役割の方がいいと思います。というのは、疲れてしまった母親は、赤ちゃんの笑顔を見ることによって、癒され、ホッとするからです。共感され癒されるのは、親とか大人から共感された時だからです。辛くても、悲しくても、苦しくても、いつも純粋無垢な笑顔を見せてくれる子どもの姿には癒されます。そういう意味では、いつも無邪気に笑っている人形でもいいかもしれません。
 人形の表情一つでも、いろいろと考えてしまいます。

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