赤ちゃん研究

発育

2010.05.29

 先日親子親睦会が行われ、0歳児の親子の関わりを見ていました。ある子が大型遊具を興味深げに見つめ、何かをしようとしていました。それを察したお父さんはその子を遊具に乗せてあげましたが、どうやら遊具で遊びたかったわけではなかったようで、階段を慎重に降り始めました。その後、その子は丸いハンドルに手を掛けよじ登っていました。子どもの行動は意図して行っているようには見えませんが、実は自分の発達をよく理解していて、自分にあった遊びを見つけているのかも知れないと思う場面をよく見かけます。その度に、子どもは自ら育つ力を持っていて、その力を大人が信じ、認めてあげることが大切だと思います。もし、子どもが自信をなくし不安になった時は「大丈夫だよ」と陰で見守っていることがとても大切なようです。
 子どの本来の育ちについてあの福沢諭吉もこんなことを言っています。
(おたよりの続き)
 江戸時代後期に英語を日本語に当てはめた漢字の中で、いまだにその間違いが影響している言葉に「教育」という日本語があります。教育と訳されている“education” は、もともと “educe” が語源で、可能性を引き出す、という意味なのに、「教え込む」という意味の漢字に当てはめてしまったからです。それはおかしいと福沢諭吉は「文明教育論」の中で、こんなことを言っています。「教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを『発育』と称すべきなり」と述べ、さらに、「天資の発達を助けるだけなので、『発育』という表現がふさわしい」と主張していたのです。明治時代の教育というのは、1872(明治5)年の学制にみられるように、非常に画一的な上からの教育でした。それに対して、彼は、「我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えり」というように、「発育」とは、そうした明治政府の教育に対する批判でした。「教育」と訳されてしまったのは、彼が何年か外国に行っているうちのことで、福沢諭吉は帰国してそれを知って、たいそう残念がったそうです。「発育」 は学び手が主体であるのに対して、「教育」 は授ける側に力点が置かれています。「学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり」というように、学校というところは、人に何かを教えるところではなく、もともと人が持っている自ら育とうとする宝を妨げないことであり、「学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし」というように、能力を見出し、それをはぐくむことが役目であるというのです。
 子どもの力を信じ、認め、見守れる大人でいたいと思います。

次回は「親子の関わり」について6月15日ごろ載せます

top