赤ちゃん研究

「何もしない喜び」

2017.07.31

   いつも元気に遊ぶ子ども達。その中に、時々、ポツンと一人で過ごしている子を見かけることがあります。心配になって話しかけてみても、うんともすんとも言わず、スーとどこか別の場所に行ってしまいます。気になって、担任にその日の様子や体調面、保護者とのその日の関わり等を聞いても、特に気になることはありません。私の中では「モヤモヤ」とした気持ちになりますが、もしかしたら、何も理由がないのかもしれません。
   ふと自分のことを当てはめてみると、「今日はたまのお休みだ―」やりたいことはたくさんあるはずなのに、なぜかボーとしてしまう時があります。毎日毎日、楽しい遊びが保障されている保育園では、時には、「何もしない喜び」があるのかもしれません。もちろん、毎日何もしないようであればそれは重大な問題ですが、一日中ボーとしているというよりは、その瞬間のある一時だけのようですから、やはり「何もしない喜び」に浸っていたのだと思います。
   人生においても、毎日を充実し、張りのある生き方をすることはとても大切なことですが、時には、「何もしない喜び」に包まれる時間があっても良いなということを教わった気がします。

(おたよりの続き)
 いつも仕事で忙しい未来志向のアリであるのをやめて、キリギリスのように行動する資格が自分にあると感じるのは、どういうときだろうかという疑問を「マシュマロテスト」のミシェルは持ちます。自分をリラックスさせ、ホットなシステムを優勢にして、心底好きな「マシュマロ」を自分に与え、返事をしていない電子メールや明日やるべきことのリストなど忘れてしまっていいのは、どういうときだろうかという疑問です。
 何もしない喜び、予定も立てずに海辺で過ごす週末、大都会へのお出かけ、あるいは人生を称えるためにただ家で過ごす休暇といった楽しみを、自分に許す気持ちは何が引き起こすのだろうか?ミシェルは、こう言っています。「地に堕ちてトップ記事を飾るヒーローたちのような愚かな振る舞いをする必要はさらさらないが、どんなときに自制を一時的に中断して、面白いことを今楽しむのを自分に許すべきかを、あるいは、逆にどんなときにこういった喜びを先延ばしにして、将来得られるもっとたくさんの大きな報酬のために、先に進み続けるべきかについて、私たちはみな暗黙のルールを持っているように思える。」と言います。
 保育室内を、子どもたちが何かをやりたいと思うことをやることができるゾーンを作ります。そのゾーンでは、熱中し、遊び込みます。しかし、子どもたちだって、その日によって、その時間によって、何もしたくないときもあります。気分が乗らないときもあります。何も考えず、ただ「ぼーっ」としていたいときだってあります。そんな子を、何もしない子、集中しない子、やる気のない子として決めつけ、追い立てるかのように、何かをやらせようとすることがあります。しかし、やりたくないときだってあるのです。その気持ちが保障できるスペースも保育室には必要な気がしています。
 また、いくら時間が押しても、次の活動の時間になっても面白いことに取り組んでいる子もいます。先日も、二歳児の部屋で、ある子が食事前におもちゃの電車で遊んでいました。何度声をかけても食事に行こうとしないのですが、そんなときに無理矢理にやめさせても、ぐずるだけなので、少し相手をして遊んでいました。すると、5分もすると、満足して、自分からもうやめると言って、さっさと食事をする準備を始めました。きっと、もう食事の時間であるということは承知していたのでしょう。きっと、自分の中に、暗黙のルールがあったのだと思います。
 私たちは、このようなルールをどうやって作り上げるのだろうか?という疑問をミシェルは持ちます。これらの疑問に対する答えは、子どもの育て方や、自分自身の扱い方に直接影響を与えるとミシェルは考えています。
 メリハリをもってテキパキと活動する時も必要ですし、時にはのんびりと活動する日があっても良いかも知れませんね。

子育ての影響について8月15日ごろHPに載せます。

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